2001-03-14

思い出の絵葉書ーデブレツェンから (1)


二月  古い中庭  

 アイスクリームかコーヒーを注文し、「中庭のあ る家」(ウドゥヴァールハーズ)のケーキ屋さんのテラスに座ってみませんか?
 まわりにはブティック、ピザ店、土産物屋、本屋さんがあり、石畳の小広場の上にはこの町の象徴でもある歴史的な大教会の黄色い塔が、空へのびています。そう、あなたはいま町の中心にいるのです。
 そこは同時に、僕の少年時代の舞台でもあります。四十年ほど前、ここには原っぱの中庭があり、兄や弟たちと春から秋にかけてサッカーをして遊び、冬には雪小屋をつくったり、バケツで水を運びスケートリンクをつくったりしました。春になると父と菜園の土を掘り起こし、そこで育ったトマトやパプリカをひと夏中食べました。
 あなたが座っているちょうどその場所に、その昔、アカシヤの茂みに埋もれた古い豚小屋(その頃、もうすでに豚はいませんでしたが)が隠されていました。棘に覆われ苔むした、眠れる野薔薇姫のその城は、僕たち中庭の子どもたちにとって最高の遊び場でした。
 でも、デブレツェンすべてがこれほど変わったわけではありません。「大森」公園のあたり、動物園や池、温泉浴場、プール、サッカースタジアムなどは、ほとんど僕の少年時代のまま。公園と森の間に建っていて、一歩足を踏み入れるといつも僕を特別な気持ちにさせてくれる大学の素敵な建物も昔のままです。

思い出の絵葉書 (2)

三月  庭と小説  

 好きな本というのは、どこでどんなふうに読んだかを、二十年経った今でもよく覚えているものだ。僕の祖母は、デブレッツェン大学の後ろに広がる森の反対側、ヨージャ村の大きな家でひとり暮らしている。大学生の頃、祖母の家で、初夏の季節を過ごすのがとりわけ僕は好きだった。自然のままの広い庭の草の上にブランケットを敷き、心地よい陽射しのなかで横になりながら─もう試験は終えていたのだろうか?─驚いたり、笑ったりしてエステルハージ・ペーテルの「生産小説」という本を読んだ。
 不思議な構成の本で、小説自体は中味の四分の一しかなく、本当の物語は後半の原注のなかに入っていた。だから、栞を二本使って行きつ戻りつ頁をめくって読まなくてはならない。それは、まるであの頃の僕らの生活を映し出しているようだった。ひとつは複雑ではあっても語ることの少ない公の生活、もうひとつはそれより
ずっと大切で奥深い外界から切り離された個の生活。
 この本を読みわかったのは、優れた作家はまず読み手として自分がどんな本を一番読みたいか、愉快で遊び心に溢れ今までなかったような本を想像し、後はそういう本を書くだけなのだ。できるだけ勇気をもって、ペンが定型のパターンに流れないよう気をつけて。
 良い本からは、日だまりの庭のように晴朗な光が漲り、その世界にいる間中ずっと自由や安らぎを感じることができる。ちょうど祖母の家の庭で感じたように。
 エステルハージの「生産小説」は、現在は学校の教科書としても読まれている。ヨージャ村はその後、デブレツェン市の行政区となり、市営バスでも行けるようになった。 

思い出の絵葉書 (3)

四月   熊さん


  子どもの頃、毎朝牛乳屋さんに行った。その店は棟続きの「中庭のある家」にあり、道を渡らなくても行けたので、両親は幼稚園生の時から僕をひとりで行かせてくれた。
 列に並び、僕の番が来ると白い上っ張りを着た素敵な色の口紅をつけた店のおばさんが、持っていった容器に新鮮な牛乳を入れてくれる。家族みんなの朝食として、三日月型のパンと三角形のチーズ一箱も買った。
 このチーズのブランドのひとつは、今でもハンガリーで買うことができる。シールに描かれているマツコウ「熊さん」は、蝶ネクタイをしてタキシードを着たウェイターだ。真面目な遊び心。なぜか僕の子供時代を彷佛とさせる。何十年も経ち、世界の反対側に住んでいる今でも、国に帰ると必ずマツコウ・チーズ買ってしまう自分に気づく。僕はこのシールをどうしても捨てられない。いつも持ち歩き、時々、熊さんの絵を描いたりしている。絵の中によくわらべうたを入れたりもする。
 こんなふうに、マツコウ・チーズの絵を僕は描きはじめた。そのイメージと体験を日本語に訳しはじめた。

思い出の絵葉書 (4)

五月   大学


 大学の建物の前に行くと今でも、五階にあった父の部屋をふと見あげてしまう。地理学科の教授室。父は時々、日曜日でも講義に大学に行き、僕も連れていってくれた。父が仕事をしている間、おごそかな部屋のなかで僕は地図や地層模型や未知の国々の写真に囲まれ、本を読んだり絵を描いたりした。
 大学の建物は僕の青春時代の舞台。高校生の頃、町の一番の図書館、心安らぐ大きな樫の老木の見える読書の聖地をよく訪れた。僕たちの高校は毎年ここで卒業パーティを開き、飾りつけされた中庭では“Lux”バンドの生演奏にあわせて学生たちのダンスの波がさざめいた。天も地もすべて舞踏の渦。中庭の各階ごとにあるバルコニーには白いクロス敷きのテーブルが並び、ウェイターたちが足早に歩き廻る。父母たちは食べたり飲んだりしながら中庭を見下ろし、初恋の人と踊るドレスアップした娘や、息子たちを目で追っていた。
 大学時代、僕は毎日ここで過ごした。中庭の階上にあるバルコニーで友情を交わしたり学んだり、大学を棲み家とし時代の先端を行くファッション、トレンドを身につけた個性ある仲間たちを眺めていた。
「こんな贅沢で美しい大学あっていいものだろうか?」そんな思いが幾度となく僕のなかを巡った。
 プレハブの家並みで町中が壊されている、そんな時代にあって、大学の建物は、質の高いものの持つ安心感を僕らに与えてくれ、時を超える希望をもたらしてくれた。僕の父と母の出会いもここだった。

思い出の絵葉書 (5)

六月   大学の教会


* 僕はデブレツェン大学の心理学科を卒業した。
 心理学科は本館にあったが、授業のほとんどは大学の横にあるプロテスタントの教会の、長いこと使われていなかった二つの部屋で行われていた。僕たちの小さな別世界。「教会に行くんだ」よく冗談っぽく言ったものだ。心理学の授業が教会で行われ、精神を扱う僕たちだけがそこに通う。それはどこか皮肉な感じがした。
 時は止まったように見え、当時の体制の未来は無限に続くように思えた。宗教の自由はなく、哲学はマルクス主義が無理矢理教えられていた。でも、大学では数年前から心理学をちゃんと学べるようになったので、精神療法と不思議な東洋の宗教“禅”との関係を僕は卒業論文のテーマにすることができた。禅の瞑想を実際体験したことのない僕の論文は、禅の関連書物と現代心理学の文献に基づく評論のようなものだったが。
 大学時代、僕は毎日こんなふうに教会に通った。これでよいのだと静かに納得していた。僕にとって、心理学も仏教も、世界観探求のためのある種の道程だった。
 その後、信仰の自由の新時代をむかえ、教会の建物内には雑誌閲覧室と音楽ライブラリーが造られた。今は現代の主神のひとり、情報がそこに住んでいる。教会の一部は大学のコンピューター・センターとなった。

思い出の絵葉書 (6)

 七月   地下室


夏、ハンガリーに帰郷したある日のこと、道を歩きながら地下室に目を留めている自分に気づいた。もう十年以上も地下鉄、地下街、地下商店街のある日本で暮らしているが、あの暗くじめじめした世界のことは久しく忘れていた。
 ブダペストやデブレツェンで20世紀初頭の古びた住宅街を歩いていると、猛暑のさなか不思議な冷風が歩道と同じ高さの地下室の窓から吹き上がってくる。何週間も、僕はどこへ行っても地下室をいつのまにか見ていた。そして過去、忘れ去ったことを思い出さずにはいられなかった。それらが急に深いところから涌き出て、僕を震わせる。無意識が、なぜ家の下に横たわる地下室に象徴されるのかわかる気がした。
 子どもの頃、この湿った暗い、クモの巣のかかった世界に降りていくのは少し勇気がいった。当時、石炭で暖を取っていたので石炭や薪はここに貯蔵され、古い服や壊れた玩具、中庭で乗っていた三輪車なども、どれも捨てることができずにそのまま放置されていた。
 その夏の終わり、ある晩長いこと会っていなかったクラスメートに再会し、地下のバーに誘われた。時が流れ、ビールを飲んでいるその場所が、子供時代の隣人の地下室であることに僕は気づきはじめた。それは静かな庭のあるカルヴァン派の牧師さんの家で、サッカーボールが高い石壁を越えてしまう度に、呼び鈴を押しては中に入らせてもらったものだ。この地下室は僕の家の地下室と地続きになっていて、今は世界中どこにでもあるようなジャズ・バーにつくりかえられている。
 クラスメートと昔のことを話しているうちに、ふと、自分がどこにいるのか気づいた。四十年後の、忘れられた思い出のなかに座っている。僕は今、現実的にも、象徴的にも、自分の無意識の中にいる。

思い出の絵葉書 (7)

八月   プレーリの端っこ


 珍しい小鳥が町の真ん中にある僕たちの庭に飛び降りてきた。小鳥はとても疲れていて、僕の兄がつかめるほどだった。鳥類図鑑で調べて、名前もわかった、チョウゲンポウだ。兄は生まれつき動物や植物が大好きで、二人とも大人になったら、森の中で忠実な犬とともに暮らすことを夢見ていた。でも、僕は将来都会に住むようになるだろう、といつか感じ始めるようになった。
 小鳥がどこから来たかはわからないままだった。靴箱に穴をいくつか開けて、小鳥を中に入れ、すぐに路面電車に乗って、小鳥にふさわしい場所、動物園に連れていってあげた。お礼に、動物園にそのまま入っていいよと言われ、僕たちは鷲や、猿や、虎や黒ヒョウを急いで見た。園が閉まる一時間前ではなく、朝から来ていたらよかったのに。
 それからも時々、僕たちは庭にきてくれたお客様、チョウゲンポウのところへ遊びに行った。
 僕の一番好きな動物、アメリカバイソンは切符を買わなくても見ることができた、バイソンの小屋は動物園の塀のとなりにあったから。森と墓地へ続く静かなポプラ並木を自転車にのって通る時、僕はよく小屋の横に立ち止まりバイソンを眺めた。
 そうだよね、君はここに追放されてきたんだよね、遠い、遠いハンガリーのプレーリの端っこへ。自分の群れと一緒に走ることもできず、若草を食べることもできず、刈り取られた草の一人前しかもらえないで。
 バイソンは、哀れな頭を振って決められた道を歩き、力強い額を緑色の鉄の塀にこすりつけ、バイソン邸内のハンガリー大平原の砂土をどしんどしんと踏みつける。

思い出の絵葉書 (8)

九月   僕の方角


北に向かって立った時、僕のどっちが西で、どっちが東かな。こんな時いつも、三歳から十八歳まで住んでいたあの広場がぱっと目の前に浮かび、僕を助けてくれ
る。
 南北を軸にしたこの町では、中央通りが広場を通り抜け、子供部屋の窓が北向きだったので、方角はとてもわかりやすかった。窓から外を見ると、真ん中に銅像が見え、その像を台座から頭のほうに細くなる磁石の針と考えると、その先はペーテルフィア通りから、大森公園を指している。その右、つまり東側には僕の通った小学校の校舎、そして左、西側にはフンガーリア映画館とカルヴァン派の大学がある。二百年前デブレツェンに住んでいた偉大な詩人チョコナイの銅像は、最初から、その顔が彼が昔教鞭を取った大学のほうを向くよう造られていた。この大学はハンガリーで最も古く、最も優れた学府の一つである。チョコナイが目を向けている方向が西。文化や知識や西ヨーロッパもこの方向にある。数百年間、ハンガリー人が視線を注いできた方向だ。
 このごろ東西南北を考える時には、あの小さな広場を見るのでなく、東京の上に視線を置き、そこから想像のなかで地球を見下ろしている。眼下の左側、西の方にはヨーロッパ、そして中国、タイ、それに日本の半分も。北と南はほんの少しずれただけ。東の方にあるのは、もう太平洋だけだなあ。

思い出の絵葉書 (9)

十月   同級生からの葉書


デブレツェンを舞台にした小説を書いた作家の一人、モーリツ・ジグモンドは、この町で学生生活を送った。彼の小説の主人公、小さな村で育った純粋な少年ミシ君がデブレツェンの有名な学校に行くことになった時、お母さんは少年に「いい子でいてね、死ぬまでずっといい子でいて」という言葉を贈った。この言葉がモーリツの小説の題名になった。
 60年代、「死ぬまでずっといい子でいて」のモノクロ映画が撮られた頃の広場は、この絵葉書の時代、世紀末の頃とあまり変わらず、僕たちが子どものとき、毎日窓から見ていた風景そのものでもあった。撮影のためセットを変える必要はほとんどなかった。僕たちは寝室の窓から撮影風景を眺めていた。今でも、靴のあのカチャンカチャンという音、馬車の間の石畳を急ぐミシ君の足音が僕には聞こえるような気がする。撮影隊のライトの光のなかに浮かぶ主人公の姿とともに。
 この葉書はPさんという昔の同級生が、東京の僕のところに送ってくれたものだ。高校生の時、僕も彼女もデブレツェンからできるだけ遠い大学、ブダペストの大学に入りたかったので、小説の終わりのほうに出てくるもうひとつの有名な言葉を笑いながらよく口にした。それは、大人の世界が厭でたまらなくなったミシ君が泣きながら「もう、僕はデブレツェンの学校にはぜったい行きたくないよ!」という言葉である。
 数年前のある夜、Pさんと一緒にデブレツェンの劇場に行った。あの静かな、哀しいほど美しい小説「死ぬまでずっといい子でいて」は、けたたましいロック・ミュージカルに焼き直されていた。

思い出の絵葉書 (10)

十一月  「大学病院」映画館


 僕の高校の同級生のある三人組は、青春時代独特の強い友情で結ばれていて、いつも一緒に勉強したり、遊んだり、ぶらついたり、ガールハントをしたりしていた。ある日、そのうちの一人が病気になり、二人は代わりに僕を映画へ誘ってくれた。これが、「大学病院」映画館、発見のきっかけだった。
 その古びた建物は医科大学のキャンパスの隅、森の端っこにあった。映画の上映は週に二晩だけだった。その日、僕たちはちょっと遅れてしまった。小さな映画館はもういっぱいで、席もないし、入ることも無理だろうと、僕は思った。でも、驚いたことに、僕たちが一直線に向かったのは切符売場の窓口ではなく、ホールの入り口の扉の前に立つ生真面目そうなおじいさんのところだった。
 サボーおじさん、こんばんわ!
 すると、サボーおじさんは、灰色の上着のポケットから切符を三枚取り出し、僕たちに渡してくれた。
 おじさんは、三人組が来ることを知っていた。雨が降っても雪が降っても、ソ連映画が上映される時も、フランス映画の時も。 週に二回、必ず。

思い出の絵葉書 (11)

十二月   人生の計画


僕はその校長先生のことをよく知っていた。父が教鞭をとり、いつか僕も通うことになる高校の校長先生のことだ。校長室の近くの広い廊下においてあったテレビの前に、男たち?先生たちと、その息子たち約三十人─が日曜日の午後、サッカーの試合があるたびに集まった。
 今回はプールの脇でみな海水パンツ姿だ。機知あふれるこの校長先生と気楽に冗談を交わし、喋っている父を見ていると、僕は何だかうれしくなった。僕たちは屋外プールの側の白いコンクリートの上に立っていた。プールの真ん中から半分は四メートルの深さがあり、泳ぎの上手な、高飛び込みする人のためのものだった。勇気ある逞しい男たち。頭のてっぺんからつま先まで。校長先生はタバコに火をつけ、父は彼がまた喫煙し始めたことをからかうように言った。
「これは棺おけの釘だよね」と、校長先生はそのころ流行の言葉で認めはしたけど、実は彼は、ほんの数週間しか禁煙できなかったのだ。喫煙がそれほど体に悪いとも思っていないようだった。長生きする、そのつもりで人生を設計していた。
「西暦2000年の大晦日の晩にソーセージを食いながら死にたいね」
 僕たちは笑った。その日は本当にくるのかな? これから四十年も先のことだ。僕のお祖父さんはきっとその日まで生きていられないな。こんな時代に生まれて、
僕はすごく運がいいと思った。次のミレニアムを一目見るチャンスに恵まれたのだから。
 でも、それまでに、絶対に…… 四メートルの深さのプールで早く泳げるようにならなくちゃ。で、飛び込みは? いつか高い飛び板からジャンプできるようになるかなあ?

思い出の絵葉書 (12)

一月  セピア色に


─なんて素敵かしら、夏の昼下がりにデブレツェンの「金の雄牛」ホテルのテラスに座っているのは。そう、ブダペストはずいぶん変わってしまったわ。クルーディや仲間の作家たちが出入りしていた「日本カフェ」は本屋さんになってしまったし、アンドラーシ通りの喫茶店にはニューリッチのビジネスマンたちがたむろしている。でも、「金の雄牛」のテラスで時を過ごしていると、今でも本当の田舎町の人たちを眺められる。どことなく古いハンガリーの雰囲気に浸ることができる。親しみのある、堕落していない空気に。私たちを取り囲むこの汚くて複雑な大都会、東京とはなんて違うんでしょう。─知り合いの優しい日本女性がこう言った。
 ちょうどその頃、僕はデブレツェンの現代作家、タル・シャーンドルの暗い小説を読んでいた。ホームレスのアル中の人々の話、罪や絶望に沈む障害者たちの話。彼らはまるで呪いにかけられたような未知の町の中でもがいている。遠い遠い世界、僕の思い出のデブレツェンのイメージとはまったくかけはなれた。
 無知の殻で守られた、外国女性の気遣いのこもる言葉。そして、距離に守られ思い出を語る人の言葉。その距離は、若き日の町をセンチメンタルにセピア色で描くよう誘惑する。
 もし機会があったら、デブレツェンを訪れてみませんか。誰かに絵葉書を書きたくなるかもしれません。