石の愛人

I.
小さい花、ハイナルカが言った。が、やがて見えなくなり双眼鏡の視界から消え た。岩を念入りに見ていると、海のほうに傾いている険しい山がくっきりと見えてく る。さらに石の皺やレースの編み目のような地衣類のパステルの濃淡。別の島を探す と山の麓をそっと覆う星の絨毯のような椰子の木の森が見えた。
またこういう遊びもできる。それは伝説の景色で、亀の背に乗って泳いでいる未知 の島々、真珠や珊瑚に囲まれた妖精の島、浦島太郎が何百年も消えてしまったその海 であると。
双眼鏡をおろしたとき、そっと笑みがこぼれた。大きいか小さいか。遠いか近いの か。椰子の木の森は彼女の足元から数メートルばかり離れた星の形をした苔に過ぎな かった。海面は鋤でならされた白い砂利。また島や山は岩だった。その一角にある大 きいものも水をたたえた田圃のみずみずしい新芽の間にのんびりと座っている水牛の 大きさでしかなかった。
龍安寺の石庭が彼女の前に広がった。庭、その魅力はみつばちや花から生じるので はない。庭、視線でしか入ることのできない。庭、嵐でも微動だにしない、どこから 風が吹いてくるかも気にとめない。時間が止まっているかのように感じられるとこ ろ。
ハイナルカたちは、すでにもう一年近く京都に住んでいた。ミハーイは仕事の虜 で、家に帰るのは深夜であった。一日中、そして街中すべてはハイナルカのものだっ た。結婚する以前にもこれほど自由に散歩したりものを見たりした機会はない。
龍安寺の石庭の幾多の季節、そして夜中をのぞいて一日をすべて知っていた。雪の 朝も、春の午後雄鶏の形をした影が岩にゆっくりと這い上がってくるときも、俄雨の 後、雨に洗われた岩の色が豊かに輝き出すときもここに来たことがある。すでに彼女 は何人かのお坊さんと顔なじみになっていた。縁側には彼女の馴染みの場所があっ た。縁側の板のたてる十一月の乾いたきしみも、夏の湿気にみちたときの鈍い音も知 っていた。彼女にはもう岩のメッセージがわかるような気がした。それは渋く、びっ くりさせ、しかも高揚させると同時に安堵させるものだった。ゆっくりと正座し、庭 に聴き入る。言わゆる、石による説教を。
あるとき、岩がまるで流れるように軽快に感じられた。また、あるときは彼女の白 昼夢に重しを与え、錨をおろすように彼女を現実へ引き戻した。ハイナルカは自分が 少しこわくなった。庭に馴染みすぎたかもしれないと思ったのだ。もうこれからは来 ない、少なくとも長い間合いを取ろうと決心した。が、足はいつしかふたたび彼女を ここに導いてしまった。
瓦ののった古い土塀、数世紀の歳月が油染みた黄土色の墨絵を壁ににじませている が、その土塀は新たにハイナルカを受け入れてくれた。彼女を砂利の白さ、平和な 苔、十五個のその岩、瞑想の宇宙的滑走路が待っていてくれた。動きのないその庭 は、彼女の心とひとつになって、行かせてくれなかった。
龍安寺の石庭を鳥たちは避けて飛ぶとよく言われる。そして天翔ける鳥たちは皆、 外に、古い壁の向こう、ここからも見える木々の上、お寺の豊かな緑の庭のほうへ飛 んでいくと。
ある四月の午後、石庭の上空に、雲の色をした勇壮な龍が浮かんできた。偉大な尻 尾をゆったりとくねらせて、とてつもなく大きな欠伸をした。
II.
(第一の僧)龍は自らの灰を海に播くよう言い残した、が僕らはその願いを…
(第二の僧)まあ、そうね。たしか1499年か1502年のことだったと思う。応仁の乱、 そのひどい内乱がついに終わって、静かな建設的気運が高まった。兄弟の骨肉の争い の教訓として、まず最初に児童心理学のための診断やセラピー療法を築き上げた。そ れは箱庭療法、つまり世界遊びと呼ばれている。子どもの患者は、診察室の片隅で小 さなたくさんのものの中から選びながら、その子らしい世界を作り上げる。その時は まだ、虎とかナイロンの恐竜、木、小さい人間、ねずみ、戦車、キッチンの家具は売 られていなかった。苔もそんなになかった。石や砂利は山ほど。
砂場に二人の子どもがいた。小太郎と清二郎というてとんでもない若者、河原者の 庭師の子孫だ。その二人の愚か者はもうすっかりはしゃぎ回って、穴やトンネルを彫 って鼻だけが出るようお互いを埋めたり、耳や口にぎゅっと砂を押し込んだり、キツ ツキをパチンコで撃ったりした。科学的発展を考えて、外の縁側の脇に、彼らひとり ひとりが一個ずつの全宇宙を組み立てられるよう配慮した。
どっちが先? じゃんけんぽん! でもそのときはグー、石しか まだ知られてい なかった。まあ大丈夫、いっしょに組み立ててもいいや。平和なら。
(第一の僧)…簡単にかなえられなかった。火葬場の釜から偉大なる遺骨ががらがら と引き出されたとき急に気がついたんだが、粉と化さなかった一ダースほどの骨、龍 の美しく力強い骨格、でかい頭蓋骨、顎骨、尻尾の脊椎骨、はなんてすばらしい光景 だったことか。二人ずつ手を用いず、金の箸を使って一個ずつ掴んでは瞑想のホール の北側、用意された場所へ入れた。そのまわりに白くてざらざらした龍の灰をならし て置いた。美しい絵、魅力的調和。
何を思い出す? 何に似てる?
子どもを連れ、川を泳いで渡ろうとしている虎の母親。空の泡の中に堕ちてしまっ た天使。霧の雲の上に成長していくスターたち。心と心の間の短さや距離。インクの しみのテストの一枚、ロールシャッハテストの十一番目のカード、野外の、レリーフ の。
(第二の僧)ああ、目に埃が入っちまった。
(ただの砂利の地謡)夜明け毎に坊主頭の僧侶に僕らは足で踏まれる。わらじを履き 袈裟を着て足にぴったりはりついたズボンをはいている。彼は僕らの中に熊手で溝を 描いてくれる。川を歩いて渡る河童が人魚の解かれた髪を櫛で梳くように。毎日彼は 僕らを愛撫し、客人たちから落とされたいろいろなわざとらしいイメージを櫛で梳 く。
(第一の岩)何百年というもの、皆の視線は私たちの上を通り過ぎた。豊臣秀吉もま だ花見に来ているだけだった。
(第二の岩)どんな空っぽの空間でも取りなさい。そしてそこに一個でも石を置きな さい。それがまさに庭というものだ。
(第三の岩)一握の砂一千の岩の美に通ず。庭、小箱の中の。エデン、シーツの上 の。
(第四の岩)僕は何の疑いも持っていない。誠実な岩の僕はここに立っていて、君が ずっといなくなってもここに居る。でも僕もいつか風化してなくなる。君同様、天国 に行く。我々は皆、魂・埃・灰である。
(第五の岩)僕は小舟、君が乗って櫂を漕ぐ。
(第六の岩)僕、ぽつんと取り残された。五百年間というもの、苔ひとつ持ったこと がないんだ。
(第七の岩)岩のイメージと岩そのもの、まさに自分でしかあり得ない。すべての岩 同様に、威厳。
(第八の岩)岩が流れ、川が止まっている。
(第九の岩)僕は黙る。沈黙によってより多くを語る。
(つくばい)吾唯足知
(ただの砂利の地謡)僕らは何? 同心円の波により海岸へ打ち寄せられた百万個の 瓶入りメッセージ。 僕らは何? 沈黙の蝉。百万匹の、霜の降りた白昼夢の中の雪蝉。でもね、もし音 楽の先生が教え導いてくれるなら、僕らの歌は、きっと石のような心を断ち切るだろ う。 僕らは何? 熊手の歯にカチンと転がる石、苔むさない岩。夜明け毎にロックンロ ール。
III.
なぜちゃんとまっすぐな線が引けないんだろう? 熊手で石をならしている若い僧 侶が告白し始めた。僕の考えが近ごろまがったりして、腕が躊躇するのはどうしてな んだ?
ある夜明けのこと、何百万個の石が一個だけ多かった。見たことのない小石を庭の 奥深く、とかげの顔をした岩の横から見つけた。熊手にカチンと音がしてそれを取り 上げたとき、僕は何だか不安な気持ちになった。すぐに思い浮かんだのは、薄いブル ーのヴェルヴェットのジャケットを羽織ったヨーロッパの女性。冬ごろから我が家に 帰るようにここに通っていて、庭を開けるときにはもう彼女の明るい朝の顔に会え る。ハイナルカ。朝顔さん。
彼女に初めて声を掛けられたとき、熱心にこう訊ねられた。ただの小石を宝石と思 ったり、宝石をただの小石にすぎないと思っている人を誰か、僧侶の僕が知っている かどうか。僕の英語は片言だ、が、彼女の様子は学者ぶるでもなく、真剣に何かを探 し求めているように受け取れた。ある時は閉園について知りたがったり、つい最近は 楽し気な口調で、ここのすべては「ジャンピング・スクール」そのもの、と言ってい た。
え? 誰が教える? 誰に? 何を、何のために?
すると彼女は笑い出してス ケッチで説明してくれた。少女のころ地面に格子を描いて、どうやって一個一個の小 石で遊んだかを。あ、そうか石蹴りか。僕も知ってるけど。当惑して口ごもった。ど んなに彼女の目を見ても、まじめに言ってるのかふざけているのか、読み取ることは できない。石蹴りって、かわいいアイディア、でも石庭のことをまったく理解してい ない。
本当にそう思ってるのか? ふざけてるのか? あの小石を見つけてからというも の、ずっと僕の頭を悩ませている。もしそれが本当なら誰がそこで跳ぶのか。どこ へ? むずかしい宿題を僕に出してどこかへ消えてしまって、彼女はもう二度と戻っ て来ない気がする。
昼間は庭で一人っきりになるのは不可能だ。きっと彼女は庭が閉まった後、誰も居 なくなったとき森のほうから戻り、こっそり入ってしまったんだろう。たいへんな決 心がいったことだろう。それでこんなことに。
このところ、ずっとさわやかな、晴れた夜が続いていた。月が、天から同時に二つ の池を眺めおろしている。壁の向こうに自らの顔を写し出す鴛鴦の池と、こちら側 の、さざ波の立つ燐光を放った真珠色の天幕、影絵遊びをしている池。ハイナルカの ことを想ってみる。彼女はいつもの場所、縁側の隅っこにじっと座って平和な調和の 中、庭と一体化している。静かな夜中。石庭はまるで天の月の安らぎの海みたいだ。 ハイナルカの前に百万人の魂の跳ぶ学校、石蹴り場が広がっている。みんなの小石が 地面に置かれたその瞬間が時の中で止まってしまっている。今度は、彼女の番。
あれから、忘れものの引き出しの中に、絹のスカーフや傘やハンドバッグにぶら下 がるイタチの尻尾と一緒にあるものを預かっている。磨かれた石、輝く。それは指輪 についていて、結婚指輪で内側に細い文字でこう彫ってある。ミハーイ 1987。
.