2006-02-07

「みみをすます」

「みみをすます」谷川俊太郎の詩について


           

 物語心理学を初めて体験する人たちに、自己紹介を、名前など言わないで、その日たまたま履いた靴を紹介することでしてもらったことがある。それぞれ、自分のこえで靴の話をすると、その人のことがびっくりするほどよくわかると、みんな体験した。
 谷川さんの詩のなかで、いろんな人が靴のおとで紹介されている。その靴の種類やおとを通して、その人が生きた時代が感じられ、また、その人の世界への入口ともなっている。ぽっくりを履いた女の子、ほうばの下駄を履いた年をとった人、わらじを履いた昔の人。

 おとやこえから、全世界への扉が開かれる。

 この詩を初めて読んだとき、観音様のことを思い出した。観音様は、すべてのおと、すべてのこえを観ている。ひとの悩みをちゃんときいているとき、そのひとの音を観ている。それを初めてしったとき、すごく新鮮で日本的だと思った。ハンガリー語のなかで育てられた私から日本語をみると、擬音のすばらしい豊さは、うらやましい点、憧れているところだ。日本語では、擬音によって、全世界を感じさせ、表すことが可能だ。
 このことは、逆に私にとって、谷川さんの詩をハンガリー語に訳すときの挑戦でもある。

 詩やほかの芸術作品は、いつも私たちを解放したり、もっと広い世界を感じさせてくれたりするものだ。今までみえなかったいろに気づかせる。この詩は特に、ある詩人の世界を観察する方法についての告白としても受け取ることができる。芸術というものはいつも、豊かな生き方を助ける方法でもある。だから私たちもこの詩を読むことで、その方法を手に入れることができる。

 「みみをすます」という詩は、この世のすべて、どんなに古い過去も含めて、どんな遠い宇宙も含めて、あなた自身、個人に与えられたものだ、ということを強く感じさせる。はるかに遠い過去のおとについても、決まったように感じるのではなく、全部すべて自分のみみで、感じなければいけないということを想い起こさせる。

 この詩の世界からどんなこえが抜けているか、ということも、私にとっては興味深い。明日より先の将来のおとについて何も考えていない。特にあの世について。
 一万年前の赤んぼのあくびや、一兆年前の宇宙のとどろきをきこうとしている詩人、それに実際に作品や子どもを残している人は、遠い将来のことをききたくないということはあり得ないだろう。それでも、明日より先の将来のおとやこえは、いまだ、存在していない。過去のどんなこえに比べても少し違う種類のものだ。そういうこえについて、何も書かないことが、この詩の大事な、美しいところだと私は思う。だから私はこの詩をよく信じることができるようになった。墨絵の何も塗っていない白いところ、自分の想像が自由に入れられる空間。

 電話のおと、ラジオのおと、CDやテレビ、機械をとおして流れてくるこえやおとは、足踏みオルガンのおとをのぞいてこの詩から抜けている。ここにあるのは、自然に、生でそのまま聞くことができるこえやおとだけだ。それでも、バルトーク・ベラが100年前に蓄音機をつかって録音した民謡などをCDできいていると、また、世界中の2000以上もの放送局から選べるいろんな国の音楽をインターネットのラジオ放送できいていると、私たちは、なんて幸せな世界に生きているのだろうと感じる。
 この詩のおかげもあるが、私は、最近電車のホームやいろんな場所で、なんてたくさんのおとがきこえるかに気づき、以前よりもっと楽しめるようになった。  
 波のおとは海のシンフォニーをつくっている。大都会のなかに生活している私たちも、いつも豊かなおとやこえのうみのなかに生きている。